鹿児島県霧島市隼人町の川尻集落に伝わります「川尻の琉球人踊り」について、保存会の海老原けいこ様にお聞きすることができました。
 「川尻の琉球人踊り」は、島津義久公が富隈城(隼人町住吉)あるいは、後に移住した国分城(別名:舞鶴城)(国分中央)に居城していた江戸時代の初め頃、琉球の人々との往来がありました。その行列を目にした川尻の人が行き交う行列を真似て三味線を弾き歌を唄いつつ、おもしろおかしく楽しい踊りを仕立てて伝え伝えてきた踊りが琉球人踊りそのものの始まりだとも云われています。また、一説には380年ほど前に琉球の船が景色浜に難破して助けられたお礼に踊ったとも云われています。
 琉球風の髪型を紫の布で飾り、琉球かすりに青の手甲に脚絆・白の腰巻・青の前掛けにわらじを履いて、道行き・琉球人踊りやんばる・大和人(ヤマトンチュウ)奴踊り・伊予節、そして最後にまた道行きの五部構成で、鉦・太鼓・三味線に合わせて四つ竹を鳴らして踊ります。踊るときに「はや景色ヶ浜とやら、道行きといたしましょうか 親方」「オー、参ろうぞ!」 「ここらで琉球人おどりやんばらをやらかせましょうか 親方」「やらかせ、やらかせ〜」・・・とせりふが続き踊ります。
 子供達は、琉球かすりの右肩袖を脱ぎ、緋の襦袢に緋の腰巻という姿で踊りを披露します。
 この踊りは、各イベント等に踊られています。手と手を、心と心を結び、世代時代を乗り越え集落の連携を広げ固めながら川尻集落の人々が代々受け継いできた「琉球人踊り」は保存会のもと地区全体で踊りの伝承と披露に取り組まれているそうです。
 今回は、いろいろお話頂きました海老原さんには、本当にありがとうございました。今後とも、よろしくお願いします。
 (写真は「琉球人踊り」と台詞の台本です)
                       

扇寿堂
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