薩摩川内市樋脇町野下集落に伝わります「野下鎌踊り」(市無形民俗文化財)について、保存会会長の荒木良子様にお聞きすることができました。
 「野下鎌踊り」は、昔 牛馬を多く飼っていた野下の人々が、牛馬の安全と五穀豊穣を祈願して毎年7月18日の馬頭観音祭に奉納されていました。長年、中断していましたが昭和9年の大干ばつの際、野下の青年たちによって復活させ、以後2〜3年続いたものの戦争のために再び中断しました。昭和35年、野下小学校の講堂落成祝賀会に野下婦人会の手によって復活しました。昭和54年11月第7回樋脇町文化祭に出場。昭和61年から、郷土芸能継承活動として野下小学校の子供達も踊っています。さらに、中学生も加わり小学校の秋季大運動会で発表しています。その他、祝い事などでも踊っています。
 野下鎌踊りの由来は、遠い藩政の頃 五郎左衛門なる男に父を討たれた、姉「おのぶ」と妹「しのぶ」の姉妹が、その仇を討つために三年の長きにわたり、浅山という道場で辛苦の修業を積み遂に「おろがせ山」の果し合いで仇を討ったという物語から語り伝えられています。
 踊りは、三尺刀・鎌・六尺棒をそれぞれ持ち、前と後ろの6人1組で踊ります。同じ持ち物でも、前と後ろでは踊りが違います。踊りの中で2人・3人・6人組と構成に変化があり、掛け声や鎌が三尺刀・六尺棒を払う音には迫力があります。踊りの中で歌われる文句は「おせろが山は前は大川」で「エイエイエイエイ」の掛け声とともに、姉妹の仇討ちに対する士気をしのばせています。踊り手は、赤いタスキ・白いタスキに白脚絆、ワラジを身につけます。 
 尚、野下鎌踊りと同種で起源も一緒のころ(約400年前と推定)と推定される踊りが、姶良市加治木町永原地区にもあります。
 今回、いろいろお話して頂きました荒木会長には、本当にありがとうございました。今後とも、よろしくお願いします。
 (写真は新・旧の「野下鎌踊り」と昭和39年の婦人会の皆さんです。画像が悪くすみません)
                              

扇寿堂
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