曽於市財部町(そお市たからべ町)七村(ななむら)地区に伝わります「七村太鼓おどり」について、保存会会長の久保勝志様にお聞きすることが出来ました。
 「七村太鼓おどり」の由来は、慶長3年(1598年)9月 島津義弘公は朝鮮の出陣で戦功を建てて帰国したが、その後 豊臣秀吉が亡くなると、天下は徳川家康の手中におさめられつつあった。同5年、関ヶ原の戦いで、一戦を勝ち取った家康のもとに日本中の諸侯は帰服しました。
 義弘公も江戸に伺候しましたが、当時江戸では疫病(コレラ)が流行して、あらゆる手段にも効き目がなく人々は恐れおののいていました。この時、たまたま駿河の念仏おどりが町中をねり歩いたところ、この恐ろしい疫病は下火になりました。これを見た義弘公は、この功徳の偉大さに驚くとともに、朝鮮の凱旋記念と合わせて藩内に踊りを行わせたいと考えました。そこで、義弘公は家臣に、このおどりの服装・歌・おどり方などを練習させて島津藩に広めたのであります。
 もう一つの説は、元禄元年(1688年)、朝鮮の役における島津義弘公の軍勢が明の大軍に突進していった有様をしのんで作られたものとも言い伝えられています。
 財部においては、150年〜200年前から踊られていたと云われています。以前は、南俣・北俣・下財部地区で踊られており、「三ケ村打ち込み」といって、日光神社(現在は奉納されていません)に集まり お互いに技を競ったりして、踊りの優劣を評価していましたが、今日は七村地区(南俣)だけで踊られています。
 現在は、曽於市市民祭で三年に1回踊られます。 11月の第一日曜日に行われます。今年(平成20年)は、踊られる年にあたります。
 今回、資料とお話をして頂きました久保会長には、本当にありがとうございました。今後とも、よろしくお願いします。
 (写真は「七村太鼓おどり」です)
                       

扇寿堂
                      senjudou

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