川東太鼓踊り (鹿児島県姶良郡蒲生町)
姶良郡蒲生町川東集落に伝わります「川東太鼓踊り」(町指定無形民俗文化財)について、保存会会長の尾之上征夫様にお聞きすることができました。
蒲生町では、現在 下久徳太鼓踊り・北太鼓踊りと川東太鼓踊りの三地区で保存会が設けられおり、太鼓踊りが継承されています。太鼓踊りは、県内各地で踊られており、その仕様は様々ながらも蒲生町・姶良町・加治木町は、踊り方と同様に同じ由来を持っています。「川東太鼓踊り」をふくむ蒲生町の太鼓踊りも同じ由来、踊り方ですが、それぞれの構成と扮装の仕様に若干の違いが見られます。
文献資料によりますと、島津義弘公が駿河の念仏踊りをみて家臣に踊りを習得させて帰郷したもの、あるいは朝鮮出兵の帰途に五島で稽古させたもので、以前は五島踊りと称されたともされています。当時、島津義弘公は 太鼓踊りは流行病を鎮める効験があり、踊りの勇壮さが士気を鼓舞するもので、征韓の凱旋踊りにしたいと考えていました。踊りを習得した家臣の池田千兵衛尉は、その意をくみ工夫を凝らし山田の士民に教えて、慶長13年(1608)に加治木館の東北大樹寺で踊らせたのが最初とされ、やがて隣村の加治木西別府に伝わり、帖佐・重富・蒲生・溝辺などに伝えられたとされています。
明治初年来、蒲生では郷内八ヶ村で太鼓踊りが行われ、旧暦七月二十一日に蒲生八幡神社へ奉納されていました。この日は、島津義弘公の命日にあたるもので弔踊りであるとの説もあります。また、日照りが続いたときの雨乞いや祝い事などにも踊られることがあります。現在は、毎年8月21日に蒲生八幡神社に奉納されて踊られます。
構成や扮装は、主に次のような形式で行われます。
●ホタ振り 〔構成〕1〜2人 〔扮装〕浴衣に角帯と脚絆を付け、黒足袋にワラジを履く。右手に扇子、左手に采配を持つ。 〔特徴〕総指揮者として、扇子と采配の先に鉦と太鼓の音を引き付けながら踊りに調和をもたせる。
●鉦打ち 〔構成〕4人が一般的だが5〜6人で踊ることもある。昨今、幼児による小鉦打ちを後列に入れることもある。〔扮装〕陣笠を被り、陣羽織と脚絆に太刀一本と印籠を付け、黒足袋にワラジを履く。左手に鉦、右手に撞木を持つ。〔特徴〕ホタ振りとの調和を保つための先導役として熟練の者があたる。
●太鼓打ち 〔構成〕20数人〔扮装〕白襦袢に脚絆を付け白足袋を履く。頭には月の輪の兜を冠り、白馬の鬣で作られた毛頭を付ける。背中には矢旗を背負い、胸に太鼓を抱えて長太刀一本を付けて太鼓を締める。〔特徴〕現在は白足袋を履いているが古くは裸足で踊っていた。
踊り方は、次のように行われます。〔道太鼓・ミツデコ〕道太鼓は、各保存会ごとにホタ振りを先頭にして中央に鉦打ちが横列に並び、その両側には太鼓打ちが縦列となって頭太鼓三名が後攻めとして進行します。〔案内太鼓・アンネデコ〕道太鼓で八幡神社に到着すると、披露順に従い庭踊りの開始となる寄せ太鼓として神社境内下で案内太鼓を踊ります。〔庭踊り・ニワオドィ〕案内太鼓が終わると先隊から順に神社境内で庭踊りを披露します。総勢がホタ振りと鉦打ちを中央にして、社前を正面にして左右前方に頭太鼓三名を置いて半円形となり、庭入りの楽から頭太鼓三名が駆け出して庭踊りとなります。入鉦を交えて三仕切り踊った後は、最初の隊形となり引庭踊りとなります。各保存会は、この引庭踊りが最終演技として全力を投じて華々しく演じ最後を仕切ります。そして、太鼓打ちから選ばれた代表者、一丁太鼓を披露して観客の喝采を浴びます。
庭踊りが終わると、休憩を挟んで町内の官公署や商店などを踊り歩きながら集落に帰り庭戻しを踊って行事の全てを終えます。
今回、詳しい資料とお話をして頂きました尾之上会長には、本当にありがとうございました。今後とも、よろしくお願いします。
(写真は「川東太鼓踊り」と蒲生八幡神社です)
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