鹿児島県薩摩川内市久見崎集落に伝わります「久見崎盆踊り想夫恋」(鹿児島県指定無形文化財)について保存会会長の山内輝男様にお聞きすることが出来ました。この踊りは「ぐみざきぼんおどりそうふれん」と読みます。
 久見崎盆踊り想夫恋は、毎年8月16日に三味線2名 太鼓1名 踊り手10名以上で踊られます。
 この踊りは、今から四百年前の慶長の役の際 秀吉の命令で高麗へ出陣した島津義弘公の一万余りの将兵は、慶長二年(1597年)三月十八日軍港であった久見崎の港から出陣して行きました。
そして、方々で奮戦戦いましたが 翌年八月秀吉の死去によって引き揚げることになりましたが、明と高麗の海軍に破れ多くの犠牲者を出しました。
 十二月に生き残った将士が久見崎港に帰ってきました。帰国の知らせを聞いて久見崎港に集まって来た出征兵士の家族の中には我が夫・父・兄弟・子供の姿を見出せない人々も多く、永久に帰らぬ戦死者家族の悲しみは一通りではありませんでした。義弘の後の家久の代になって、この戦いで戦死した敵味方の霊を慰めるため、毎年旧の八月十四日 先程書きましたが現在の八月十六日に盛大な慰霊祭を行い、その時地元の未亡人たちに踊らせた踊りが いまの「想夫恋」のもとになったと云われています。
 明治維新後は暫く途絶えていましたが、鹿児島高等農林学校初代校長の玉利博士の肝いりで63年ぶりに大正の末に復活して、今の踊りに伝わっています。
 黒い布で面を包み、浴衣に男物の黒紋付、後ろ腰に脇差しを差した踊り手が哀調を帯びた「ソーレセー」「ヤットセー ヨーイヤナ」の唄に会わせゆったりとした動きで踊り、文禄・慶長の役のため朝鮮に赴き、帰らぬ人となった夫や子らの御霊を国もとに残った家族たちが供養するために唄い踊ったものです。
 今回は、詳しい資料や写真を見せていただいて、お話をお伺いすることが出来ました。山内様には本当にありがとうございました。今後とも、よろしくお願いします。
 (写真は久見崎盆踊り想夫恋です)
                      

扇寿堂
                     senjudou

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